A Day In The Life
ジョン・レノン氏と
メイフェアの想い出
原宿のブティックにディスプレイされていた1本の眼鏡。
それがジョン・レノン氏と白山眼鏡店を結ぶ赤い糸になったのは、1979年の夏のことでした。
イギリスで初の女性首相、サッチャーが誕生し、国内では「ウォークマン」が音楽の楽しみ方を一変させたこの年、
白山眼鏡店にとっても、永遠に忘れることのできない物語が動き始めていたのです。
原宿のブティックにディスプレイされていた1本の眼鏡。
それがジョン・レノン氏と白山眼鏡店を結ぶ赤い糸になったのは、
1979年の夏のことでした。
イギリスで初の女性首相、サッチャーが誕生し、
国内では「ウォークマン」が音楽の楽しみ方を一変させたこの年、
白山眼鏡店にとっても、永遠に忘れることのできない物語が動き始めていたのです。
序幕
「ジョン・レノンがお店にディスプレイされている
白山の眼鏡にとても興味を持っている」という連絡が入ったのです。
プロローグは1本の電話から始まりました。友人でもあるブティックのオーナーデザイナーから、
「ジョン・レノンがお店にディスプレイされている白山の眼鏡にとても興味を持っている」
という連絡が入ったのです。それは、1978年リリースのメイフェアとネーミングされたセルロイド製のフレームでした。
当時、ジョンはすべての音楽活動から離れ、息子ショーンの育児に専念する“主夫”を大いに楽しんでいた時期で、夏休みにはお忍びで日本を訪れていたのです。そして、原宿のブティックでスーツやシャツを誂えていました。ブティックのオーナーデザイナーとジョンとの交友を知っていたとはいえ、突然のオファーはとても信じられるものではありません。
震えるような喜びは、すぐに緊張へと変わりました。
「“永遠のカリスマ”がメイフェアをかけてくれるかもしれない」
「メイフェア以外のデザインも是非見てもらいたい」……
様々な思いが頭の中を駆け巡ったことは言うまでもありません。悩みに悩んだ結果、当時の白山眼鏡店のオリジナルモデル5種類すべてを指定された宿泊先に持参しようと決めました。
第一幕
「Hi! I’m John!」 威圧感を感じることもなく、
緊張感が自然に溶けていくような穏やかな時間が流れていきました。
ジョンとの出会いの第一幕は、ホテル・オークラが舞台でした。原宿のブティックのオーナーデザイナーと共に訪れたのは最上階のペントハウス。極限まで高まった緊張感に暑さも忘れる中、ドアをノックする音が奇妙に乾いた音を響かせていました。
部屋にはピアノが置かれ、ソファにはさりげなくギターが立てかけられていました。そして、幾つかの愛用の眼鏡も……。ところが、ジョンの姿はありません。実は、昼寝の最中だったのです。
「もう少し寝かせてあげたい」
ヨーコさんのジョンへのやさしい心遣いに、なんとも言えないウットリとした感慨にひたっていました。しばらくすると、うっすらと無精髭を生やしたジョンが目の前に現れました。
「Hi! I’m John!」
思っていたよりも小柄でスリム……それが第一印象でした。威圧感を感じることもなく、緊張感が自然に溶けていくような穏やかな時間が流れていきました。それは眼鏡ができるまでの3回のミーティングの間、いつも変わることはありませんでした。
そしてまた、ルームサービスのコーヒーの香りに包まれつつ、自身の作品を含め、音楽についてのいろいろな話に耳を傾けたひとときは、なによりも貴重な体験でした。
最初のミーティングで、ヨーコさんと相談して5つのモデルからジョンが選んだのは、やはり原宿のブティックで最初に目にしたメイフェアでした。イエロー系のらん甲、茶系のべっ甲、そしてクリアの3本が、ジョンのお気に入りとなったのです。
第二幕
その交換したレンズが、後に白山眼鏡店の宝物になるとは…
ジョンとの出会いの第二幕は、その2日後のことで、レンズのカラーリングについてのミーティングでした。
レンズの色見本を前に、ジョンはとても個性的な意見を熱く語ってくれました。
らん甲にはとにかく濃い色をということでアポルックスブラウン75、べっ甲にはアポルックスブラウン50、そしてクリアには淡いブルーのソフルックスS1を組み合わせることにしました。
ジョンはかなり強度の近視でしたが、乱視はそれよりさらに強いため、愛用の眼鏡のうち最も見やすいというメタルフレームのレンズと同じ度にしてほしいと依頼されました。
さらに、使用中の黒いフレームのレンズも、同じ度のレンズに入れ替えてほしいとオファーがありました。
この交換したレンズが、後に白山眼鏡店の宝物になるとは……。
第三幕
気が付くとベッドサイドのラジオから
ポール・マッカートニーの『ジェット』が流れていました。
来日の目的である軽井沢行きに間に合わせてほしいというジョンの願いに応えようと、どうにかやりくりして3本のメイフェアを持参したのが、8月24日のこと。オーダーから2週間近くが経っていました。
第三幕の舞台は、驚いたことにベッドルームでした。ベッドに横たわり寛ぐジョンとヨーコ。アムステルダムの「ベッド・イン」が一瞬頭をよぎりました。
気が付くとベッドサイドのラジオからポール・マッカートニーの『ジェット』が流れていました。ジョンはさりげなくボリュームを上げ、曲が終わるとそっとボリュームを元に戻しました。そんなちょっとした仕草にも、胸がときめいたものでした。
ベッドでフィッティングというまさかの展開に戸惑いつつも、眼鏡にとってフィッティングは最大の関門です。ここを疎かにして、良き眼鏡は生まれません。レンズの位置や角度、フロントの傾き、テンプルのフィット感など、多角的なアプローチが要求されます。
ジョンは鼻がとても高く、凹凸がハッキリしているため、調整はとてもしやすい顔立ちでした。2回目のミーティングでかけてもらったメイフェアを持ち帰り、記憶を元にあらかじめ調整していたとはいえ、実際のフィッティングはとても緊張したのを覚えています。
この時、レンズ交換を頼まれていた黒いフレームの眼鏡もお渡ししたのですが、
「元のレンズはそこのゴミ箱に捨ててくれる」
こんな機会は一生ありません。思わず、
「よろしければ、片方のレンズだけいただけませんか?」
と聞いていました。
ジョンは笑いながら、
「僕の目がどれだけ見えない(blind)か黙っていてくれたらあげてもいいよ」
そのレンズは、白山眼鏡店の宝物として門外不出となりました。
フィッティングが終わり、メイフェアをかけたジョンは、
「Good!」
と満面の笑みで答えてくれました。その笑顔の記憶もまた、なによりも大切な宝物になったことは言うまでもありません。
終幕
ホテル・オークラでの出会いから1年4ケ月、
最後の瞬間までジョンがメイフェアを愛用していたという事実
当時、白山眼鏡店では毎年数本の新作をデザインしていました。そんな話をジョンにすると、「僕用に各アイテムを取り置きしてくれないか」と思わぬ言葉が返ってきました。それは願ってもないことで、許されるならその場で飛び上がりたいほどの歓喜の瞬間でした。
翌年の夏の再会を約束して第三幕が閉じ、白山眼鏡店はジョンをイメージした新作に取り掛かりました。ジョンにかけてもらいたい…… その一心でイメージの翼が大きく広がっていきました。完成したモデルは、ジョンのミドルネームにちなんで、ウィンストンと名付けました。
しかし、その夏、ジョンとヨーコの姿は日本にありませんでした。最後となるアルバム『ダブル・ファンタジー』の制作に着手していたのです。
それでもまた必ず会える、という願いが脆くも崩れる悲しい出来事でエピローグの幕が開きます。1980年12月8日夜、ニューヨークの自宅「ダコタハウス」の門前で、ジョンが凶弾に倒れたのです。
傍らには、血に染まったメイフェアが残されました。それはクリアのフレームでしたが、凶弾に倒れる数時間前にはらん甲のメイフェアをかけてファンにサインをしている写真が残されています。(そのファンこそがジョンを撃った犯人だったとは……)
おそらく、ジョンは用途に合わせて眼鏡を掛け替えていたに違いありません。
ホテル・オークラでの出会いから1年4ケ月、最後の瞬間までジョンがメイフェアを愛用していたという事実は、白山眼鏡店の悲しいけれど、まさに眼鏡屋冥利に尽きる、大いなる誇りです。
「ポールはメロディーで遊び、ジョンは詩で遊ぶ」と言われます。白山眼鏡店も「眼鏡で遊ぶ」ことで、いつかジョンの魂に触れることができたら……
その時こそ、メイフェアの封印が解かれる日となるのかもしれません。
2018年7月20日 白山眼鏡店